世界には様々な情報が飛び交っています。
その情報をただ受け流すか、それとも自らの活動の指針にするかは人しだいです。
参考までに、私なりの情報評価方法について簡単に解説したいと思います。
報道はときには内容を歪められ、ときには発表する時期を遅らせられます。
そして、その背後には様々な利害関係が見え隠れします。
報道を正しく評価するには、そういうことを見抜く目が必要です。
大事件報道にかき消された報道の存在を疑ってみるなど、「考える」ことを忘れないことです。
相手にとって不利な情報は大々的に報道させ、自分にとって不利な情報は報道させなければ、相対的に相手の評価を下げることが可能ということです。
報道は平等中立ではなく、その内容は意図的にクローズアップされたり、ふせられたりします。
一方的な報道を受け入れるのではなく、ふせられている情報を調べたり読み取った上で、情報を評価するべきです。
各種情報メディアには、事件に関してのもっともらしい意見が掲載されることがあります。
それらは必ずしも正しい意見とは限りません。
それは人を自分の都合のいい方向に誘導するための言葉だったり、無知に基づくまったく的外れの言葉だったりします。
例え、権威者の意見であろうと無批判に受け入れるのではなく、自らが持つ情報と照らし合わせて、その意見が正しいかどうか評価する姿勢を持つべきです。
解説は必要ないでしょう。
本当の被害者は誰なのかを考える必要があります。
報道は「スポンサー」の意向をくんだり、営業妨害を恐れてのものである可能性があるということです。
新聞に掲載される記事の全体的な傾向から、その新聞社の支持基盤や背後関係を推測してみるという姿勢も持つべきでしょう。
同情や憎悪をかきたてるために利用される感情論。
ある者は誘導された同情により罪を許され、ある者は誘導された憎悪により断罪されます。
人は感情に流されやすい生き物でありますが、誘導された感情で行為を正しく評価する目を曇らせるようなことは無くすべきです。
今回の米同時多発テロでの最終的な死者数は5000人を越えるとされています。その一方では米国主導の経済制裁で何千人、何万人の子供が餓死しているとききます。「人を殺すにあたって武力をもってするか経済力をもってするかで、民間人を殺しているのに変わりはない」ということができるのではないでしょうか。
いずれにせよ民間人を巻き込むような争いは世の中から無くなってほしいものです。
様々な報道は私達に今おこっている事態を「解った」気にさせてくれます。
ですが、本当に私達は今おこっている事態を解っているのでしょうか。
報道が誘導しようとする事実認識と現実は違うことがよくあります。
例えばですがタリバンに敵対する勢力だから北部同盟は正義という考え方はおめでたいとしか言いようがありません。
現在、北部同盟を構成しているゲリラ達はかつてお互いに内戦を繰り返し、虐殺、婦女暴行、略奪、通行税などの悪行で、アフガニスタンではタリバン以上に嫌われているのですから。
私達から見て、タリバンの圧政は確かに酷いものですが、それ以前に支配していたゲリラ達はもっと酷いことをやっていたのです。
報道はそういうことにほとんど触れません。そこには民衆の意識をある方向に誘導しようという明確な意思が見て取れます。
このような例は他にも色々あります。
歴史的に見て、偏った情報を大々的に報道したり、意図的に情報をふせたり、ときには虚飾を織り交ぜることで、民衆は簡単に誘導されてしまいます。
いい加減、私達は、正義などの民衆を煽動するための「建前」と、国家の「本音」が別のところにあることをきちんと認識し、情報を的確に評価することを学ぶべきではないでしょうか。
旧日本軍やナチの台頭は、煽動された民衆の熱狂的な支持があってこそという歴史を私達は忘れてはなりません。