煽動政治は、成功すれば一気に、統治者が望む方向に民心を誘導できる方法です。
そして、それは統治者にとっては非常に魅力的な手法でしょう。
しかし、煽動による熱狂は冷静で客観的なものの見方をできなくしてしまいます。
それは現実的で合理的な判断能力の喪失を意味し、結果として国を滅ぼすことに繋がりかねません。
(私見ですが、かつての日本帝國とナチスドイツの敗北はその実例と言っていいでしょう。)
煽動政治には、人々の心を鼓舞する勇ましいスローガン、反対者を沈黙させ排除するためのレッテル貼り、人の心を掴みやすい短くて単純なキャッチフレーズ、人目を引くパフォーマンスなど様々な手法があります。
これらの手法自体は悪いわけではなく、人々に耳を傾けてもらうために必要な場合もありますが、論理ではなく感情に訴えかける傾向があり、それが問題となります。
これらの手法による感情の高揚は、人々の間に論理的な議論が成立しない状況をもたらすからです。
例えば、勇ましいスローガンは、そのスローガンに相反する意見を「臆病」なものとし、それだけで否定しがちです。その意見が現実に即した合理的なものであろうとも。
また、反対者を沈黙させ排除するためのレッテル貼りは、そもそも相反する意見を発言することすらできなくしてしまいます。
果たしてそのような状況でまともな議論が成立するでしょうか?
追認のみで、反対意見どころか論理の正当性すら検証できないような議論は議論と言えるのでしょうか?
煽動に用いられる言葉は、ときには統治者にとっても諸刃の剣となることがあります。自らが手段として用いた言葉を人々が信奉することにより、自らその言葉に背くことができない自縄自縛状態となり、「手段」として用いた言葉を「目的」として行動しなければならないことが往々にしてあるからです。
煽動政治の手法はある種の劇薬のようなものです。
目的に即した高い効果を発揮しますが、その一方で強い副作用を持ち、常用し続けるとその毒が心と体を蝕んでゆきます。
私は人々が冷静な目で煽動政治の手法を使う人々の本質を見極め、そのような政治姿勢に対して現実的で合理的な判断を下すことを望みます。
それは、先の大戦から半世紀以上過ぎ去り、社会の中核を成す人々の殆どがそのような煽動政治の害毒を実体験として持たない現在では高望みというものなのでしょうか?
先の大戦における日本の敗北の本質的な原因は、小手先の戦略や戦術の間違いではなく、国家として現実的で合理的な判断能力を失ったことと私は考えます。
勇ましいスローガンやマスコミに煽動された国民の後押しは、戦力の限界を越えた無謀な戦線の拡大を許容しますし、理由がどうであろうと「日本が負ける」と口に出そうものなら非国民のレッテルを貼られ罷免・投獄されるような社会では、「この状況で戦争をすれば負ける」ということが判っていても、然るべき場でそれを発言することは困難でしょう。
結局は煽動政治に用いたスローガンやレッテルが、日本を現実的で合理的な判断ができない国に変えてしまったと言えるのではないでしょうか。
現実に即した合理的な意見や提案が「卑怯」や「臆病」として退けられ、無謀な作戦でも「勇敢」であれば承認され、その結果、退くべき時に退くことができず、攻めてはいけない時や攻める必要がない時に攻めてしまい、無用に戦力の消耗をしてしまうようでは、勝てる戦も勝てなくなるというものです。
かつての戦争において、日本が戦力の限界を越えて戦線を拡大して敗北したことや、ガダルカナルやインパールなどにおいて明らかに無謀な作戦を実行し続けたことを、愚かと断ずることは簡単です。
しかしながら、批判をそこまでで留め、当時の人々がそのような判断をした本質的な原因について洞察しないようでは、今を生きる私達も同じような過ちを繰り返す可能性があります。