自由意志という幻想

 人は自らの自由意志のもとに行動していると考えがちです。
 しかしながら、人間の行動は獲得した情報に大きく左右されます。
 特に物事を深く考えない人間ほど決まった反応をする可能性が高いものです。
 これは、ある人間が獲得した情報に対してどういう反応をするかを知っている人間は、その人物に適切な情報を与えることで望みどおりに操れるということを意味します。
 物事を深く考えることをしない人間は、自分の自由意志で行動していると考えつつ、望みの方向に人を誘導しようと考える情報提供者の操り人形になってしまうことが有り得るというわけです。
 このように自由意志という言葉の土台は危ういものです。

 その元々危うい土台が現代では崩れ去りつつあるかのようです。
 ここで問題にするのは「人間は良くできた化学機械に過ぎない」といった類のことではありません。
 大衆の嗜好の問題です。

 視聴率や発行部数などを見れば、統計的に大衆が内容の無いバラエティ番組や陳腐な筋書きのドラマや薄っぺらな恋愛小説を好むことは明らかです。
 直接的に表現すれば、統計的に大衆はエログロナンセンスが大好きなのです。
 そして、大衆が何を好むかというマーケティングリサーチの結果、市場はさらにその手の番組や書籍で満ち溢れるという循環。
 その結果、そういうものに囲まれて育った人々は、人の心の機微を読み取ったり言葉で語られない内容を洞察したり情報の価値や信頼性を判断したりといった能力を養うこと無く齢を重ねていくのです。
 自由主義の現代において、衆愚化は所謂陰謀論者がいうような統治者の陰謀の結果などではありません。大衆の知的怠惰の結果です。
 情報的価値が無くてもバカみたいな笑いや底の浅い感動を提供する番組を好む大衆が知的情報番組をテレビから殆んど駆逐し、書籍業界の衰退を招いたのです。
 人々が知的好奇心旺盛で様々な情報について深く洞察することを好めば、自由主義の市場はそれに応えたことでしょう。
 人々が望んで深く考えることを放棄し、単純な入力に対して単純な反応をする操り人形になっているのです。

 人間の思考が獲得した情報の影響を受ける以上、自由意志という言葉は半分は幻想で半分は希望のようなものです。
 そして、現在、人々は深く考えることを放棄することで残り半分の希望まで自ら捨て去ろうとしているかのようです。

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